心配事で頭がいっぱいになった時

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こんにちは。
四谷学院の療育通信講座、55レッスンのブログ担当necoです。

ある男の子の思い出

わたしが小学生だった頃、クラスの同級生に、ジャイアンというあだ名の男の子がいました。
彼は授業中に離席して教室を歩き回ることが多く、ふらりと教室を出ていくこともよくありました。
また、クラスメイトを殴る蹴る、悪口を言うなど、言動が乱暴で、しょっちゅう先生に叱られていました。

クラス中の女子生徒は彼のことを恐れていました。
いつ、突然、彼に叩かれるか、わからないからです。
わたしも、なるべく彼の視界に入らないように、ビクビクしながら生活していました。

クラス内のトラブルに巻き込まれる関係者

彼のように、元気の良さがつい不適切な形であふれ出してしまうお子さんは少なくありません。
幼稚園・保育園や学校などの集団生活の場では、それがトラブルの原因になることもあります。

クラス内のトラブルは、おおごとでなければ、当人同士の話し合い+先生の仲介で解決するでしょう。
が、たとえば大きなケガをしたり、持ち物を壊したりするようなことがあると、子供同士のやりとりだけでは話が収まらず、親御さんが関わる場面が増えてきます。

こんな時、驚くのは保護者です。
突然先生から連絡を受けて、寝耳に水の情報に困惑される方も多いのではないでしょうか。

保護者は園や学校での様子を直接見ることもできず、我が子の話から状況を知るしかないわけですから、十分な情報収集もできず、不安や焦り、怒りなどが波立つでしょう。
子供の表現力・認識力では十分に状況を説明できなかったり、感情が先立って偏った説明になったりすることも多くあります。
お子さんの幼い怒りが大人に伝染し、保護者までむやみに腹が立ってきて、会ったこともない相手のお子さんやその保護者に激しい憤りを感じる、などということもしばしば。

感情の渦から逃れるには

トラブルを起こしがちな元気の良いお子さんがいるクラスでは、先生・子供たち・保護者たちを巻き込んで、全員が感情の渦に飲み込まれることがあります。

「乱暴な○○さんを何とかしてほしい」
「(衝動的な行動を抑制すると考えられる)薬を飲むべきか」
「もう学校なんか行きたくない」
「あの親は謝罪の言葉すらない、非常識だ」
「なんとか状況を丸く収めるにはどうすればよいか」
など、など・・・

各人各様の思惑が入り乱れ、それでなくても混乱した状況がますます複雑になっていきます。
こんな時の解決策は一つだけです。

世界の外に立つこと

一時的に状況を整える手法は無数にあるでしょうが、根本的な解決策を見出すためには、この方法に勝るものはありません。

対立の正体

たとえばこんな例で考えてみましょう。

昨今はイスラム世界での対立が激化し、中東を中心に大国の思惑が絡み合って、不幸な争いが続いています。
争いの原因を一言で概説することは難しいですが、特にスンニ派とシーア派という2つの派閥の対立が主な原因となったとされています。

このブログを読まれるのはほとんどが日本の方だと思いますが、多くの日本人にとって、イスラム教は馴染みの薄い教えでしょう。
イスラム教の敬虔な信徒の方には申し訳ないけれど、スンニ派とかシーア派とか、あんまりよくわからない・・・というのが、大半の方の正直な意見ではないかと思います。

スンニ派もシーア派も同じイスラム教の宗派です。
教義には大きな違いはなく、指導者の選び方が異なっているのだそうです。それぞれの派閥が信じる正義を押し立てて、イスラム教徒の(一部の)方々はぶつかり合っています。

ですが、イスラム教徒以外の人からすれば、イスラム教の指導者がどなたであろうと、その方がどのように選ばれようと、そう大きな問題とは感じられないでしょう。

あるグループには生命を賭けてでも守りたい重要な問題が、あるグループにはごく薄い興味しか喚起しない。
これは、前者の世界観と、後者の世界観が全く異なるからです。後者の人は、前者の人とは異なる世界に住んでいる、と言いかえてもよいでしょう。

ある世界に住んでいる人には、その世界の価値観の影響から逃れることはできません。その影響を脱するには、その世界を出て、外側の世界に立つしか方法はないのです。

世界の外に立ってトラブルを見つめ直す

クラス内のトラブルも同じです。
クラスの世界観に立っているからこそ、乱暴な○○さんが悪いだの、謝罪のない保護者が悪いだの、とにかく丸く収めようだのといった考えが生まれてきます。

では、一旦クラスの世界の外に立ってみるとどうでしょうか?
スンニ派やシーア派の指導者が誰であってもイスラム教徒以外の人にとってはほとんど関係がない(ように思える)のと同じように、クラス内の細かい利害関係や感情問題が自分とは関係がないように見え、状況が急に客観的に見えてきます。

イスラム教の対立は自分とは遠い世界の話だから客観視できるけれど、現にいま我が子が通っているクラスの「世界の外に立つ」と言われたって、、、
そんなことが簡単にできたら苦労しませんよ。

そんなふうに思われる方もいらっしゃるかもしれません。
確かに、物理的・時間的に「今まさにここにいる世界」から抜け出すことは、物理的に遠い世界のことを扱う場合と比べて、少々のテクニックが必要です。
が、決して不可能ではないのです。

次回のnecoのブログでは、「世界の外に立つ」方法をお伝えします。

最後に:ある男の子の思い出の続き

冒頭にご紹介した、「ジャイアン」と呼ばれていた男の子について、もう一つお伝えしたいエピソードがあります。

席替えで彼の隣の席になったことがあります。
わたしはできるだけ小さくなって、彼の意識に触れないようにと祈りながら生活していたのでしたが、、、

ある日のこと。
わたしは朝から体調が悪く、なんとか登校はしましたが、時間が経つにつれ、次第に席についているのも苦痛になってきました。
が、引っ込み思案だった当時のわたしは、自分で先生に許可を取って保健室に行ったり早退の許可を求めたりなど、到底できる気がしませんでした。
ひたすら終業時間を待ちながら黙って耐えていた時、隣の席から彼がわたしにささやきました。

「オマエ、さっきから変だけど、具合わりいの?」

わたしがうなずくと、彼は教室中に響き渡るほどの大声で叫びました。

「せんせー! neco、具合わりいんだってー!」

わたしはあまりの大声に仰天し、彼を止めようとしましたが、先生はすぐに振り向き、

「あら、本当だ。顔色が悪いね。保健室に行きましょう。○○君、教えてくれてありがとう」

と、テキパキと対応してくれました。
わたしは彼に直接お礼を言えたかどうか、記憶にないのですが、今でもその時の彼の大声はハッキリと覚えています。
彼の大声には、わたしのグズグズを吹き飛ばすような、爽快な力がありました。

世界一有名な猫型ロボットが登場する、例のアニメに登場するジャイアンは、自分勝手ないじめっ子として描かれることが多いですが、時には身を張って弱いものを助ける、男気にあふれた頼もしい少年でもあります。

わたしのクラスにいた「ジャイアン」君も、乱暴なだけではない、親切で頼もしく力強い一面を持っていたのです。
彼の大きな大きな声が、わたしにそれを気付かせてくれました。

この子は乱暴だ、という価値観に立っていては、その子の別の一面を見ることはできません。
この子には必ず他の面がある、という世界に立って初めて、ではそれはどんな面だろうか?と探すことができます。
育児・療育には、いま自分がいる世界の外に立つ、という視点が欠かせません。

次回のnecoのブログで、さらに詳しくご紹介します。
それでは、また。

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